アウシュビッツ唯一の日本語ガイドの中谷さんとは、
前回も書きましたが、4月~10月は、早朝、夕方の数時間以外は、
ガイドなしでは入れません。
入場料は無料ですが、ガイドにガイド料として、
料金を払う形式をとっています。
で、ご覧のように、凄い人なんです。
ガイドをしてもらうのは、私一人ではなくて、何人か一緒なはず。
ちょうど、地球の歩き方を持っている男の人がいたので、
声をかけました。
ドイツ在住だそうで、今日は義父と一緒に見学に来たそうで。
確実に日本人の方と一緒だと、こういう場所ではちょっと安心しますね。
色々、お話をしていると間もなく中谷さんがふらーっと到着しました。
内心、私にとって、
学生時代から本などの中で見て来た憧れの人なので、
有名人に遭えたような感覚。
そして、そんな中谷さんのガイドは、
私のユダヤ人ホロコーストに関する知識なんて、
軽く超えるとともに、そこに何重にも新しい考え方を吹き込んでくれるような、
素晴らしいガイドでした。
アウシュビッツという世界的な負の遺産のガイドは、
しっかりと真実を伝えるとともに、
重要な役割をも果たさなければならないので、
なるには資格がいるそうです。
その資格をとるのに認められるのもかなりの大変さだそうで、
中谷さんも、結構大変だったそう。
確かに、こんな世界的な負の世界遺産の出来事を伝えるには、
偏った伝え方もしてはいけないだろうし、
全ての知識を全部結びつけていないと、
とてもガイドなんてできないですよね。。。
そして、なぜ伝えるのか、それが明確に伝わることもガイドの役割な気がします。
結果、それらをすべて渡してくれた、
唯一の日本人ガイドの中谷さんのお話は、本当に素晴らしかったです。
ミュージアム、と言っても、実際の収容所をそう呼ぶのですが、
A4以上の大きさの荷物は持って入れません。
なので、入り口近くにある小屋で荷物を預けます。
更に、手荷物検査なんかをして、いよいよ中へ。
もう各国のガイドと見学者があふれているので、
自分のグループの話がしっかり聴こえるように、
ガイドはマイクをつけ、見学者はヘッドホンを渡されます。
そこからは、自分のガイドの声だけが聴こえるようになっています。
アウシュヴィッツ強制収容所と言えば、誰もが思い浮かべる、
入り口のドイツ語。
“労働は自由への道(働けば、自由になる)”と書いてあります。
ちなみに、この写真に写っている人、かなりここでポーズを決めて記念撮影。
ここには、たくさんのユダヤ人ももちろん訪れるので、
中谷さんいわく、そういう自分を入れて写真を撮っている観光気分の人は、
かなり眉をしかめられるそうで。
記念撮影という感覚が、ホロコーストとはという事実をきちんと知っていると考えられません。
これは、反対側から見た看板。
わかりにくくてすみませんが、文字の右から3つ目、
”B”にあたる文字は、
上下が正しいBとは逆になっているのが、わかりますでしょうか?
本で読んだことがあるのですが、
これは造った人が密かに反抗心を込めたからだとか。
でも、この看板はレプリカ。
本物は、既に朽ちてしまったそうです。
中谷さんが、ガイドを始めた頃からですら、
だいぶ建物なんかも風化してしまったそう。
でも、修復などはしているとのことで、
景色は変わらないにせよ、木だけは成長しているから、
当時のままのものと、時代が進んでいるものと。
何よりも、たくさんのものを見てきたのは、
この木々なのかもしれないですね。
ここ、オシフィエンチムの収容所は、この後行くビルケナウも含め、
第三まであったそうです。
ドイツ軍は、撤退をするときに、ほとんどの資料を焼きはらい、
また、いくつかの建物なんかも破壊して行ったそうで、
これだけの負の世界遺産にも関わらず、残されている資料は少ないのだそうです。
特にここ、第一収容所には、多い時で2万人の人が収容されていたそうです。(ちなみに第一と言っても、クラクフで第一なだけで、初めて造られた収容所は、ミュンヘンにあるダッハウ収容所。)
そして、ここに収容されれば、命の選別をされ、
生きる道を与えられても、
あまりにも反人道的な強制労働によって、
2~3カ月しか生きられなかったそうで、
10人に1人の生還者しかいませんでした。
脱走防止のため、周囲に張り巡らされた電線。
いくつかある宿舎のうち、入れるようになっているところの中には、
後々、ガス室のくだりなどでも書きますが、
骨は、砕かれ灰にされ、野原などに撒かれたそうです。
この旅でもたくさんのホロコーストの歴史を垣間見て、
知ってきたけど、
いつもいつも、映画でも写真でも、
私が見ていて胸がしめつけられるのは、
ある日、普通の生活をすることを突然禁止され、
自分の家に住むことを禁止され、
日用品を持って、移動している姿。
それは、ただの引っ越しや移民することなんかとは大きく違う。
待っている死への道でしかないのに。
何も知らず、
あるいは、すべてを悟って、
手には、食器や櫛や、本当に日常で使う何気ない物を持って、
故郷を出るのです。
それは、本人の死への気持ちなんて微塵もない、
日常を送る=生きるという
紛れもない意志なのに。
本当の本心は、心の底では、
どんな気持ちで、足を踏み出したんだろう。
私はいつも、それを想うたびに泣きそうになる。
当時の人達も目にしたであろう、実際の窓から見える景色が、
だけどきっと、当時のここには、絶望しかなかったはずで。
やっぱり悲しい気持ちになりました。
まだまだ続きます。
あなたにも行きたい場所へと飛ぶ風が吹きますように。
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ガイドさん
広島の平和公園に行ったとき、ボランティアガイドさんに、公園の慰霊碑巡りの案内をしてもらいました。
そのときも、ガイドさんはまだ若い人でしたが、平和への熱い思いが伝わりました。
我々も感動しました。
アウシュヴィツッのガイドさんの話を聞いて、思い出しました。
平和な世界を築いていきたいですね。